「円紫さんと私シリーズ」の第3弾である『秋の花』。

本作は一応、第3弾ではあるが、第1弾と第2弾を読んでいなくても、読むことはできる。

というのも、「円紫さんと私シリーズ」は登場人物や時系列はつながっているが、ひとつひとつのお話自体は一話完結型となっているからだ。

順番に読んでいると、より楽しめるといった感じだ。

それでは、さっそく紹介していこう。

あらすじ

主人公《私》の母校である、とある女子高で、文化祭が中止になった。

それは、文化祭の直前に事件が起きたからである。

生徒の一人が屋上から落ちて死んでしまったのだ。

落ちた子は、《私》の近所に住んでいて、名前を「津田さん」といった。

その「津田さん」には、仲良しでいつも一緒にいる友達がいて、その友達は名前を「和泉さん」といった。

その事件が起きて、しばらくたったある日、《私》の家の郵便受けに差出人不明の奇妙な紙が届く。

その紙は、よくみると教科書のコピーであった。内容を見てみると、それはアダム・スミスについて書かれてあるページのコピーで、《見えざる手》の部分だけが、赤くマークされていた。

《見えざる手》

とはなんなのか。

これは、事件を暗示しているのか。
差出人は誰なのか。

《私》は、母校で起きた転落死の謎を追っていくことになる。

見どころ&感想

物語に派手さがある訳ではないけど、最後まで飽きさせないのがすごい

「円紫さんと私シリーズ」は、日常系ミステリーの金字塔といわれるように、日常系のミステリーとして紹介されることが多い。

日常の謎を多く扱っているためである。

今回のお話では、転落死が起きているので、それは、日常ではなく非日常だろ。というツッコミもあるだろうが。それは置いておいて。

日常系というだけあって、物語は、主人公の家に友達が遊びに来たり、主人公の過去の体験や読書遍歴が語られたりで、とくにこれといった派手さがある訳ではない。

ここでいう派手さとは、凶悪な殺人犯が登場したり、大がかかりなトリックを名探偵が暴いたり、といったことを指す。

日常系のお話は、上記のような派手さがないために、ともすれば単調で退屈に感じてしまうこともある。

だけど、本作は、最後まで飽きることなく読み進めることができた。

ほんとに作者の技量はすごいなと思う。

ところどころにあるホラーテイストにゾクリとさせられる

本作『秋の花』では、特にホラーテイストの描写がところどころに入っており、ゾクリとされられた。

ここでいうホラーテイストの描写というのは、直接的なホラー描写ではなく、なにかを暗示するような、怖さである。

2つほど、引用してみよう。

正ちゃんはいぶかし気に聞く。

「どうかしたの」

「文化祭、中止になっちゃったの」

虫の声が深くなった。

引用:北村薫『秋の花』(創元推理文庫)p18

棺に入れて焼いたのだ。

その本もまた、もはやこの世のものではないのだ。

百舌が鳴いた。

引用:北村薫『秋の花』(創元推理文庫)p52

ちなみに、百舌は「もず」と読み、「キイキイキイ」と鳴く。

いかがだろうか。
こういった、ホラー映画でいう薄暗い部屋の中で畳だけがが写っているというような演出は、和のホラーの特徴的なものだという話を聞いたことがある。

「円紫さんと私シリーズ」の第1弾の中に収録されている『織部の霊』というお話も、今回のようなホラーテイストで、筆者はたまたま夜中に布団にくるまりながら読んでいたため、特に怖かった記憶がある。

いま述べた『織部の霊』というお話は、シリーズの中でも、特に気に入っているお話で、今回の『秋の花』と同じくらいか、それ以上に面白いと思っているお話だ。

また気が向いたら、紹介記事を書こうと思う。

印象に残った言葉

本作の中で印象に残った言葉がある。

それは、「耳食」という言葉だ。

以下のシーンで登場した。

《耳食のことを覚えているかい》

私は、こくんと頷いていった。

《耳で食べてはいけません》

《そうそう》

叔父さんも嬉しそうに頷いた。叔父さんが我が家に来た時、読書感想文の宿題をやっている私に向かって、心得として説いてくれたのが《耳食》という言葉だったのだ。

 即ち─本でも絵でも音楽でも、他人に、これはいい、といわれて、それにとらわれてはいけない。それは評判を聞いて料理を食べ、闇雲においしいというようなもの、つまりは耳で食べているようなものだ。
 グルメ本時代を先取りしたようで、これは難しいどころか、ごく分かりやすい譬えだった。

引用:北村薫『秋の花』(創元推理文庫)p42〜p43

耳で食べると書いて「耳食(じしょく)」と読む。

いつも難しい言葉を使うので《漢語使いの龍麿》と呼ばれている、主人公の叔父の龍麿(たつまろ)叔父さんが主人公に教えてくれた言葉だ。

ところで、上記に引用の中に「グルメ本時代」という言葉が出てくる。
なかには、聞き慣れない言葉で首をかしげた方もおられるかもしれない。

今の時代は、インターネットが発達により、簡単にお店の口コミを見られるようになった。そのため、食事をするお店を決めるときには、食べログなどの口コミサイトを参考にすることが一般に普及している。

本作『秋の花』が出版されたのは、1991年、そして文庫版が出されたのが、その6年後、1997年である。

1991〜1997年といえば、どんな時代か。インターネットの普及に着目して、簡単に歴史を振り返ってみたい。

ちょうどこのあたりの時代は、インターネットの黎明期にあたり、当時を知る人によると、検索してもwebページは数えるほどしか出てこなかったという。

現在、検索エンジンにキーワードを打ち込むと、1日では見きれないほどの量がヒットすることを考えると、驚くべきことだ。

そして大手掲示板サイトとして名高い、「2ちゃんねる」ができたのが、1999年のことである。「2ちゃんねる」は現在はいろいろあって「5ちゃんねる」に名称を変えている。

mixiのサービス開始が2004年、そして、Twitterの日本でのサービス開始が2008年4月で、同年の5月にFacebookが日本でのサービスを開始している。

以上見てきたように、本作『秋の花』が出版された当時は、今ほどインターネットが一般的ではなかったことがわかる。

そんな随分前に書かれた本であるにも関わらず、この「耳食」という言葉は、僕達がいつの間にか見失ってしまっている大切なことを気づかせてくれるようで、趣深いと思った。

作中では折口信夫氏の本に出てきたと書かれてあるので、昔からある言葉ではある。

筆者も、amazonのレビューを参考にしたり、アニメを見るときには前評判をチェックしてみたりして、見るかどうか、買うかどうかを判断することが多いので、この「耳食」という言葉を聞いてハッさせられた。

「他人の評判を聞いて、それにとらわれているのは、耳で食べているようなものだ」
うん。これはいい。

おわりに

途中、本の紹介のつもりがインターネットの歴史講義みたいになってしまったが、なんとか話をまとめることができたので良しとする。

今回紹介させていただいた『秋の花』。この記事を読んで、少しでも興味を持ってくれたという方がもしおられたなら、大変うれしい。

それでは。

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